とらぬたぬきの皮算用

中小企業診断士を目指しています。

ミヒャエル・エンデ『モモ』を読む

満開の河津桜(たぶん)の木の下で読んでいたのは、ミヒャエル・エンデ『モモ』(大島かおり・訳 岩波少年文庫)。お気に入りの本で、人に貸しては返ってこなくて、もう何冊か同じ本を買っています。たぶん100回くらいは読んでいます。

時間どろぼうに奪われた時間を、「モモ」という名前の少女が取り返しに行くファンタジー。ファンタジーのお約束で、物語はめでたしめでたしで終わります。が、現代社会で働く我々にとって、登場する大人たちの仕事の様子があまりにもリアルでホラーで風刺がきいています。

こういう働き方をすることで、じぶんの心のそこからの信念を、いやこれまでの生き方ぜんぶを、否定し、うらぎったのです。それを考えると、じぶんのしていることがたまらなくいやで、吐き気がしそうでした。(p.272)

「だが、夢もなしにびんぼうでいる――いやだ、モモ、それじゃ地獄だよ。だからぼくは、いまのままのほうがまだましなんだ。これだって地獄にはちがいないけど、でもすくなくともいごこちはいい。――ああ、ぼくはなにをしゃべっているんだろう?」(p.308) 

これ、児童文学の文言ですかね? 私が『モモ』に初めて出会ったのは小学生の頃で、そのときはさらりと読んでしまったのです。この物語の凄みは、仕事に疲れた大人でないと分かりません。

小学生の時は図書館で借りたこの本を(当時はハードカバーしかなかったですね)、大きくなってから文庫で買って、時々読み返しています。就活のとき、転職を決意したとき、産休のとき、節目節目で読んで、そのたびに背中を押され、読むたびに発見があります。

物語はモモの活躍によってめでたしめでたしで終わりますが、大人の我々にとってはちっともめでたくありません。現実世界にも時間どろぼうは存在しているようですが、モモは見当たらないからです。リアルでホラー。さて、時間を取り返すにはどうしたら? とにかくだれかれ構わず私が激推ししている本です。児童書だと思って侮るべからず。

 

ところで、1973年にドイツで出版された本なので、さすがにちょっと古いなというか、不満な点が1点あります。それは、この本の中で働く女性がほとんど登場しないこと。登場するのは居酒屋のニノのおかみさんのリリアーナくらいです。この人も働く人として描かれているかというと、すごく微妙。あ、あとはジロラモの秘書3人。名前は不明。あくまで補佐。他に働く女性は登場しない気がします。

「ママだって、一日じゅうるすさ。」(p.114)

とあるので、子どもたちのママも働いていそうですが、前面には出てきません。50年前の物語ですから、仕方がないのかもしれません。現在なら、ポリコレ的に働く女性を混ぜて描きそうな気がします。

床屋のフージーさんの一節の後半にこう書いてあります。

時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとはしませんでした。(p.106)

働く母ほど「時間をケチケチ」しながら生きている人種もなかなかいないと思うんですけどねぇ。ワーママが「時間をケチケチ」することの是非を述べたいのではなくて、エンデさんだったらどう描くか知りたいなぁと気になるのです。

そんなことを思いながら読み返していたら、次のような一節を見つけました。子どもたちが遊ぶシーンです。

「この劇場を大きな船のつもりにして、航海ごっこをしようや。だれも行ったことのない海にのりだして、冒険をするんだ。おれが船長で、おまえが一等航海士。そしておまえは自然科学者、大学教授だよ。この航海は研究のためなんだから、いいか? ほかのやつは水夫だ。」

「じゃ、あたしたち女の子は?」

「女の水夫さ。未来の船だもん。」(p.35-36)

そうか。我々は未来に生きていたのか(水夫ではないけど)。エンデさん、抜け目ないなぁ。本当に読むたびに発見がある本です。

追記

『モモ』のリンクも写真もつけるの忘れてたので、アマゾンのリンク貼ります。が、え? kindle unlimitedで0円!? なんと! 私が買って貸してあげなくてもみんな読める! ぜひ!

https://www.amazon.co.jp/dp/B073PPWX7L?ref_=cm_sw_r_mwn_dp_BCVBRAJ8YCGBTQ9G2T2X